067250 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

Stand By Me 5

 翌日会社から戻ると、もう里見はいなかった。彼の使っていた鍵は、郵便受けの中に入っていた。
 あや女はテレビをつけ、着がえをして昨夜の残りのカレーを温めた。
 部屋中にカレーの匂いが漂い、テレビからは笑い声が響く。
 独りだった。三日前までと同じ。なのに、部屋がこんなにも広く感じられる。
 たった三日間で、「二人」に慣れてしまっていたらしい。
 里見の作ったカレーをスプーンで弄びながら、あや女は里見との会話を反芻してみた。自分でも嫌になるくらい、彼の言葉を一つ一つ覚えていた。
 そして、涙をそっと拭ってくれた温かい指……。
「ちきしょう!」
 あや女は乱暴に皿を前に押しやり、テーブルに突っ伏した。
 昨夜、なんで俊成のことであんなに怒ってしまったんだろう。
 あいつがいないだけで、なんでこんなに泣きたくなるんだろう。
 この気持ちは、たぶん……。
 バカだ。今更。
 もう二度と会うこともないのに。
 二つある里見との接点、俊成と桜子には、こんな気持ちは打ち明けられない。
 今は、まだ。
 でも、会いたい気持ちが抑えられなくなったら、彼らのところへ行くかもしれない。里見の消息を聞くために。
 そして、それから?
 里見に会って、この気持ちを伝えられる日がくるのだろうか。
 しかし、今のままのあや女なら、会えたとしても意地を張って終わりだろう。二十五歳にもなるのに、不器用で。自分の気持ちひとつ、上手く相手に伝えることができなくて。
 何度こういう気持ちを繰り返せば、独りぼっちから抜け出すことができるのだろう。

 翌朝、インターホンが立て続けにならされる音で目が覚めた。時計を見ると、まだ朝の四時半。その間も、まだインターホンは鳴り続いている。
「誰?」
 寝起きの不機嫌な声で言うと、相手は一瞬怯んだように沈黙した。やがて、切羽詰った女の声がした。
『桜子』
 あや女は乱暴にチェーンロックをはずした。ドアを開けたとたん、桜子が飛び込んできた。
「里見は?」
 桜子の目は、一心にリーガルの靴を探している。
「いないよ。新居決まって、昨日出てった」
「どこへ?」
「知らない」
 それで帰るだろうと思っていたが、桜子は帰らなかった。玄関で突っ立ったまま、なにか考え込んでいる。
 五月も末とはいえ、明け方は寒い。あや女はパジャマの上から、両腕をさすった。
「とりあえず入ってよ。茶でも淹れるから」
「あや女」
 あや女の言葉を無視して、桜子は言い出した。
「あたしをここに住ませて」
 あまりにも唐突な申し出で、あや女は一瞬これは夢だろうと思った。
「皿洗いでも掃除でもなんでもするから。パパが海外赴任することになっちゃったの。家族全員でシンガポールに行くって。あたし、日本を離れたくない。里見のそばにいたいの。おねがい、あや女、あたしをここにおいて」
 早口でしゃべる桜子に、頭がくらくらしてきた。やはりこれは夢に違いない。目を覚ますには、熱いお茶を一杯飲まなければいけない。
 無理やり桜子を居間に引っ張り入れ、熱いダージリンを淹れる。その間も桜子は、うわ言のように繰り返していた。
「あたし、里見のそばにいたい。里見のいないところなんて、絶対いや」
 そして、とうとう泣き出してしまった。
 昨夜、あや女はなかなか寝付かれなかった。明け方近くなってやっとうとうとしたと思ったら、桜子にたたき起こされた。
 だから、こんな頭の中に霧がかかったような気分なんだ。きっとそうに違いないんだ。
 しかし、どう説明をつけても目の前で泣いている桜子は、夢ではなかった。

 なんとか桜子を宥めて、家に帰り学校へ行くように説き付け、あや女も会社へ行った。
 会社から電話をして、仕事帰りに父親と会う約束をした。
 正直、桜子と一緒に住みたいとは思わなかった。しかし、桜子に対しては罪悪感がある。ここで桜子の願いをかなえることができれば、少しでも、彼女から父を奪っていたことへの罪滅ぼしができるような気がした。
 久々に会う父は多少白髪が増えていたが、相変わらず活力にあふれ、自分のすべてに自信を持っているようだった。
「会うたびに母さんに似てくるな」
 挨拶の後で父に言われたが、あや女はうれしくなかった。性格はともかく、顔だけなら父に似たほうがいい。
「会社の若い子に教えてもらったんだ」
 そう言いながら、父は変わった外観のタイ料理店へあや女を連れて行った。やけに辛いスープを飲みながら、あや女は、桜子のことをどう切り出したものか迷っていた。
「あや女は、誰か結婚したい男でもできたのか?」
 父の問いに、あや女はあわてて首を横に振る。
「なんだ、違うのか。おまえから会いたいなんて珍しいから、てっきり結婚の話かと思ったのに。オクテだよなあ、あや女は。父さんがあや女の年頃には、もうおまえがハイハイしてたんだぞ」
 ……あんたと一緒にしないでよ。
 あや女は、桜子のことをさっさと話すことに決めた。
「今日連絡したのは、桜子のことなの。父さん、シンガポールに赴任することに決まったんでしょ」
「桜子に聞いたのか?」
「そうよ」
「桜子が、おまえに会いに行ったのか?」
「そうよ」
「いつの間に、そんなに仲良くなったんだ?」
 ……その話は置いとけよ。
なかなか本題に入ることができなくて、あや女はイライラし始めた。
「そうか。あや女と桜子がなあ。腹違いとはいえ二人きりの姉妹なんだし、いつかは仲良くなってくれればと願っていたんだ。いやあ、良かった、良かった」
 父は心底うれしそうに、何度も何度も頷いている。
 勝手なことを、と思ったが、桜子を日本に残すように説得するには仲良し姉妹路線は有効かもしれない。そう考え直して、あや女は父に調子を合わせた。
「それでね、桜子のことなんだけど、あたしが面倒みるから日本に残してあげてくれないかなあ」
「それはダメだ」
 即座に否定されて、あや女はがっかりした。しかし、ここであっさり引き下がっては罪滅ぼしにならない。
「桜子も高校二年生でしょ。受験のことを考えると、日本にいたほうがいいと思うんだけど」
「あの勉強嫌いが、大学にいくと思うか?」
 ……あのバカ。あや女は密かに唇を噛んだ。
「嫌いな勉強を無理してさせるよりも、海外に出て視野を広げたほうが桜子のためにはいいさ。自分探し、というんだっけ?」
 ……親と一緒にする自分探しに価値があるのか? どう考えても言い訳としか思えない。父は、桜子を手元においておきたいのだ。
「で、でもね、桜子には、今大切にしたい友達や生活もあるわけだし……」
「……そうか。あや女は桜子に俺を説得するように頼まれたんだな。でも、ダメだぞ。家族は一緒にいるのが一番いいんだ」
 その言葉を聞いたとたん、あや女の中でなにかが切れた。
「それを、あんたが言うわけ?」
 怒りのあまり、あや女は立ち上がっていた。ウェイターや周りの客が、興味深げに二人を見ている。
「あんたたちがあたしを一人にして放り出したのは、今の桜子とひとつしか違わない、十八歳のときよ。それを今更、家族は一緒が一番だって? 笑わせないでよ!」
「あや女と桜子では、事情が違うだろう」
 周囲の目を気にして、父はあや女を無理やり座らせた。
「桜子には、幼い頃寂しい思いをさせたから……」
「だから、いつまでも手元において猫っかわいがりしようってわけね。それはあんたの勝手な理屈よ。あたしたちはペットじゃない。あたしたちだって、後悔のない人生を選ぶ権利があるわ。桜子は日本に残させます。本人が、望んでいるんだからね」
 そう言い捨てて、あや女は店を出た。
 最寄りの地下鉄への道を急ぎながら、あや女はこみ上げてくる笑いを押さえることができなかった。
 あや女が(強制的に)独り立ちさせられたときは、口答え一つしなかった。
 できなかったのだ。自分が生まれてしまったばっかりに、何人もの人生を変えていた。そのことがショックで、文句なんて言える立場ではないと諦めていた。
 それでも、言いたいことが本当はあったのだ。それを、桜子のためということで、父にぶつけることができた。
 持つべきものは、わがままな異母妹かもしれない。
 そう思いながら、あや女は、今はもう独りではない家への道を急いだ。



© Rakuten Group, Inc.